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 そもそも自信を持って自分を肯定することと、他者に自慢することの間には大きな隔たりがある。「肉体に自信がある」と断言すると、必ず「おまえはどれだけ自分のことをいい女だと思っているのか」「実態はそうでもないのに、自分はスタイルがいいと思い込んでいる厚顔無恥な女」と非難されるが、自信と、万人に「いい女」として承認される他者評価とは、本来、関係がない。

 目標体重を決めてダイエットしたり、自分の身体を好きになるために毎日オイルマッサージを行ってコンディションを整えたり、コンプレックスを整形手術でクリアするために一生懸命働いてお金を貯めたり。努力の過程でくじけそうになっても何とかやり抜き、成果を得るに至った、自己鍛錬の達成感を自信と呼ぶ。諦めずにやり抜いた自分は、自己肯定するに足る活動を行った。その事実が自信、誇りであって、成果が万人に美しいと認められるクオリティーか否かはまったく別のレイヤーの話だ。

 自己と向き合って得た自信は、他者がいようが、いまいが、何と言われようが、揺るぎなく、美しく自分の土壌に在り続ける。幼少の頃に負った怪我の傷跡を悲観して来た者が、長年に渡って連れ添ううちに、自分らしい肉体のチャームポイントとして捉えることに成功するケースもあるように、「肉体に自信がある」という表現は、自分と自分の容器である肉体の折り合いをつけた事実を自ら喜ぶ状況を指し示す。

 他者が肉体を褒めてくれた時、それがお世辞や社交辞令であっても、鍛錬を乗り越えた自己と正対する者は、素直に明るく「ありがとう」と謝辞を述べる。そうした自己肯定の公言を、一足飛びに「自慢」と捉える他者こそが、自分の誇りを他者評価によって確認したり、人を見下し、馬鹿にするための武器として活用したり、他者との比較によって優位性を誇示したりと、自他の距離を有耶無耶にした状態で他者依存的な「自慢」を行う者である。他者の土壌を荒らさなければ自分を誇れない状態は、自信のなさの現れでしかない。

 自分の土壌に所属する自信を肯定的に受け止められる者は、他者評価を不要とする。自信の肯定発言も、事実説明として放っただけであり、それを相手との優位性争いのためのアイテムとして機能させる構えは一切ない。しかし、意図せず自慢やマウンティングと解釈されてしまうのは、偏に先方が「自分は自分」「人は人」と割り切れぬまま、自他の土壌の上に自己像を築こうとする精神性の持ち主だからだ。

 相手から与えられた情報を、自分の土壌で解釈し、相手の事実と断定認識するから、会話に歪みが生じる。空気も淀む。不潔な境界線にわざわざ居合わせる必要などない。きれいさっぱり無視すればいい。

 と言いたいところだが、放っておいたら自己完結しがちな「在り方」派だけに、異なる価値観の人々とも積極的にお喋りしないと視野が矮小化し、脳も固まる。よって、煙たがられながらも、ユーモアを大事に、丸出しスタイルも曲げずに、陽気に説明し続けようと思うのだ。

 もちろん持って生まれた性格が謙虚な者や、自信がない者を笑うことはない。自己と言動が正対している人には、他者に妙なひっかかりを感知させる淀みがないから、すんなりと言い分を受容できる。そうではない者が、メソッドのオブラートに自信を隠したところで、半透明のオブラートだけに自信は透けて見える。だから鼻につく。自分の「在り方」よりも「見え方」を重んじる者が、自己評価を他者に委ねるあたりには、等身大の自分とは異なる、自分役を演じるパフォーマンスに没入しているような、歪なズレを感じる。  自分という人物は他者の目があってようやく存在し得るため、戦略としての「見え方」は重要だが、それはあくまでも戦略であって、生物としての情報の純度が高いのは「在り方」の方だ。褒められているポイントが、前者の場合は方法論、後者の場合は存在そのものである以上、少なくとも私にとっては、後者の方が喜びは大きい。
専門家が「知っている人」としての立場を保持するために“「私が知っていることが正しいためには、現実はこうでなくてはならない」”という本末転倒な思考回路の罠にハマってしまうのだ。
読めば読むほど、「江戸しぐさ」はトンデモとしか思えないのに、今もなお広がっている。その理由はさまざまだが、原田のこの文章がもっとも的確に示しているだろう。
〈「江戸しぐさ」の説明をみていくと、現代人の不作法を非難し、それと対比する形で「江戸しぐさ」を行う江戸っ子を称賛するという形式のものが目立つ。それは、老人が「最近の若者」を非難することで、自分たちの若いころを称揚するのに似ている〉
「江戸しぐさ」を支持する人たちにとって、重要なのは今の社会への不満や問題意識だ。「江戸」はそれらを批判するために「使われて」いる。本来の江戸がどんなものだったかには興味を持たれていない。
WebやSNSには、取り敢えずてっとり早く注目を稼げれば満足、というような人がいて、そういう人は「燃えやすい藁人形」に対するデマや誤情報を量産してまで反応を稼ごうとする
以前も何度か書いたんですが、「分かりやすい悪役が含まれた情報」に触れた時に、ガードを大幅に下げてしまう人って、やはり物凄く多いんだなあと。そんな中でも、特に、「特定の藁人形を悪役にした情報」ではより一層その傾向が強くなるなあ、と。そんなことを考えています。


私が観測する限り、「NHK、電通、JASRAC」の三つが、Web上で藁人形役になる機会はかなり多いような気がします。webにおける藁人形三兄弟です。
絵描きはいきなり作画するより写真や3Dでガイドをつくる方が早いと言い、写真家はいきなり撮るより絵や3Dで場所選びや色合いを調整しておく方が早いと言い、3Dアーティスト人はいきなりモデリングするより絵や写真でイメージを固めた方が早いと言う。それぞれが他業種の方が楽だと思っている。
Twitter / bokuen (via katoyuu)

どんな状況にあっても、プランBさえ持っていれば追い詰められない。誰かに対して理不尽なコントロールを試みる人たちは相手の選択枝を枯らすような工夫をしかけるし、選択枝を持たない人は、どれだけ精神力を鍛えていようが、そうした作為に抗えない。

暴力の排除、とくに陰口や「空気」によるそれを集団の場から排除することは難しい。まだしもたぶん、「そこにいる人の選択肢を枯らさない」ような仕組みを作るほうが、正解に近づけるのではないかと思う。

覚えやすい複雑なパスワードにしてください
(via otsune)

 ただ、こちら(書き手の側)から見ていると、編集者が原稿をより良くしようと思って意見を言っているのか、掲載された活字が引き起こすかもしれない騒動をこわがって書き直しを要求しているのかは、手に取るようにわかるものなのだ。で、あるタイプの編集者が、原稿に対して何かを言ってきた場合、彼がそれを言い出した理由の大半は、つまるところ、自己保身なのである。

 仮に、朝日の編集者が、新聞の名誉のために、掲載を拒否したというのなら、まだ多少は救いがある。
 間違った判断であれ、動機そのものには、若干いじらしいところがあるからだ。

 が、池上さんの原稿にダメ出しをした人間が守ろうとしていたのは「朝日」ではない。「ジャーナリズム」でもない。彼が防衛しようとしたのは「オレの社内的な立場」程度のものに違いない。

「自分が担当した筆者に自社の批判を書かれたということのマイナス査定効果」

 みたいな、およそケチくさい視野狭窄が、彼にああいう判断をさせたのだ。

 これを、朝日の体質として捉えるべきではない。
 デカい会社の中にいる人間にある程度通底する病弊だ。

 たとえば、文藝春秋や新潮社の社員の中には、朝日のアラ探しをすれば、社内の評価が上がると考えている人々が一定数含まれていて、彼らは、より強烈な朝日叩きのネタを探すために今日も仕事に励んでいたりするわけなのだが、そんなふうに安易に「社内の空気」に同調してしまうことが、ものを書く人間としていかになさけない事であるのかといったあたりの事情に、彼らは、決して気づかない。

 そういう意味では、この半月ほど、「吉田調書」や「慰安婦報道」の波に乗って、朝日バッシングを繰り返しているメディアの人々と、貴重な批判記事にダメ出しをした朝日の編集者は、会社の方針なりプライドなりをいとも無批判に内面化しているという意味で、そんなに違った人種ではない。

 編集者の判断ミスも、記者の誤記も、デスクの誤読も、細かいところまで拾えば、いずれも、よくある話だ。
 よくある話だから、たいした問題ではないということではない。
 むしろ、よくある話だからこそ、対応については洗練を極めなければならない。