1人が要求を繰り返し、もう1人がそれを繰り返し無視し、双方が苛立つことになるnaggingは、どのカップルもある時点で直面する問題だ。nagging行為が持つ力は大きく、結婚生活の継続という観点からすると、不倫や経済的な困窮と同じくらい危険になり得る。専門家はnaggingがまさに、毒をはらむコミュニケーションであって、最終的に結婚を破綻させる可能性があると警告する。

 なぜわれわれはしつこく依頼し続けるのだろう。モンテフィオーレ医療センター(ニューヨーク)の精神医学・行動科学部の副部長で心理学者のスコット・ウェツラー博士によると、「われわれには相手から望むものを得られないであろうとの認識があり、それを得るために頼み続ける必要があると感じる」という。依頼される側がしつこく言われるのにうんざりして無視し始めると、依頼する側がさらに依頼するという循環に陥る。

 ウェツラー博士によれば、性格も大きく作用する。極端にまめ、強迫的、ないし心配性の人は催促するのを抑えられない可能性がある。とりわけパートナーがのんびり屋で、ぎりぎりになって行動することが多いとそうだ。

 夫がしつこく依頼し、妻がそれに対して怒るという逆のケースもあり得る。しかし、専門家によれば、女性の方がしつこく依頼する公算が大きいという。これは主として、女性が家庭生活の管理においてより大きな責任を感じるからだ。また妻のほうが夫婦間の問題を示す早期の兆候に対してより敏感な傾向にあることも一因だ。女性が何かを依頼して応答が得られないと、すぐに何か問題があると認識する傾向にある。問題は、繰り返し依頼することで、事態をさらに悪化させてしまうことだ。

 男性にも責任はある。いつも明確な応答をするわけではないからだ。実際、イライラするからという理由で、妻の言っていることを聞かないようにする夫がいるかもしれない。しつこく依頼されると母親に叱られている子どものように感じる男性もいる。しかし、男性が答えない理由は、多くの場合、まだ答えが分からないからか、その答えが女性をがっかりさせることが分かっているからだ。

例えば、優れた売れっ子のマンガ家がいて、老練な担当者がついていて、名アシスタントがいて、才能ある若手アシスタントがいて、10人のチームでマンガを描いていたとしよう。一方、大して技術もない凡人を100人集めて、前出のチームと同じマンガができるとかと聞かれたらどう思うだろう?殆どの人はそれは無理じゃない?と思うだろう。1000人でも無理かもしれない。

開発も同じなんだよ、本質的にはね。

でもそう思われにくいのはなんでだろう?それは多分、開発に従事する人にはマンガ家のような才能や際立った技術は必要ないと思われてるからだ。言われた所を言われたようにベタを塗るだけがプログラマの仕事だと思われているからだ。実際それをプログラマなのだと定義している会社もある。技術はお金にならない低俗なものだという偏ったイメージもこの世界には蔓延している。それが上流偏重の問題なんだ。

売れっ子のマンガ家のような設計(マンガで言えばネームや原作)からプログラミングまでこなせる技術者、老練な担当者のようなプロジェクトマネージャ、名アシスタントのような匠のプログラマ、勉強熱心な技術者は実際に存在してる。並以下の人材を倍集めたって100人集めたって彼らと同じものができるわけじゃない。

でも、どんなプロジェクトにもそんなスター的な人材が確保できるとはいえないし、単純な増員で対応できるようにする必要が、日本の大きな会社や大きなプロジェクトではあった。それを可能にするのが分業化だ。工程を徹底的に分業化することで、末端のセクションの習得コストを出来る限り低くし、品質の維持も図る。言い方を変えれば、創作を出来る限り製造にするということ。

それによるデメリットは明確だよね。新しいアイデアが実現されにくくなる。時代の流れの速さに追いついていけない。個々の持っているスキルが生かされない、技術が評価されない。技術者のモチベーションが下がる。なにより、正しい分業化とマネージメントが行われずに盲目的に人数を増やすと、ただただ炎上にしかならないってこと。お金だけが莫大にかかっていくということ。

特許庁の55億かけて頓挫したプロジェクトの報告書が面白い (via katoyuu)

リソースとコストをごっちゃにするとこうなる。よくある話。

(via hexe)

安易に色分けしたくなるような社会の風潮があるとするのならば、社会が社会の限界を作り、また社会自らが思考停止状態を作っているような気がしてならない

私は長いこと、本物の人生はこれから始まると思って過ごしてきた。

だが、いつも、何かに邪魔されてきた―
先に片づけなければならないこと、やりかけの仕事、借金の返済。

それらすべてが終わったら、人生が始まるだろう、と思ってきた。

やがて、ついに私は悟った。

こういった邪魔物こそ、私の人生だったのだと。

A:平日の午前9時から午後5時まで働いている人
B:休日もほとんどなく、毎日朝から晩まで働いている人
C:週に数時間だけ働いている人

この3人のうち、「もっとも模範的な人」はどの人だろうか。
その社会で何が「模範的」と考えられているかによるが、日本ではAだろう。

この3人のうち、「もっとも幸せな人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人の「幸せ」観や、仕事の内容による。

この3人のうち、「もっとも社会に貢献している人」はどの人だろうか。
それはわからない。それぞれの人が出している成果による。

Aが「模範的」であり、「望ましい」とその社会が考えるのは構わないが、だからといってBやCの労働形態を規制したり、罰していいものだろうか。

Bは仕事が面白くて、3人のうちもっとも充実しているかもしれない。
Cは最小の労働で、3人のうちもっとも大きな成果を出しているかもしれない。

逆にAは、労働時間だけ見れば「模範的」かもしれないが、ほとんど成果を出しておらず、かつ本人も幸せでないかもしれない。
AはBより労働時間は短いが、仕事がつまらなくて苦痛であり、余暇の時間をストレス解消のために無為に過ごし、稼いだお金をムダ使いしているかもしれない。

自由主義者はこう考える。何が幸せかは本人しかわからないのだから、本人がA~Cのうち好きなものを選べばいい。逆に、本人がA~Cのうち好きなものを選べないように社会が強制するのは、自由の侵害である。

得られる報酬や対価は、労働時間ではなく出した成果で決まる。これは、労働によって生まれる商品やサービスを買う消費者が、その生産のためにかかった労働時間に関係なく、あくまでもその商品やサービスの内容に対して、その価格が納得いくかどうかだけで買うことを決めるからだ。いくらたくさん働き、いくらすごいものを生産したとしても、買い手があらわれなければ、その生産者にはお金が入らない。

結局のところ、社会から見て「模範的」な働き方が、本人の幸せを保証するわけでもないし、成果を出せることを保証するわけでもない。よって、政府が個人に対して「模範的」な働き方を強制できる根拠はないはずだ。幸せも成果も保証されないのに、政府が個人に何かを強制するとすれば、それは「コスト」(機会費用)であり、税金を取られてお金が減るのと同じく、自由という財産が減らされている。

本人の幸せは、本人にしかわからないのだから、本人に自由にさせればよい。報酬は成果に応じて得られるのが当然だから、それを前提として、どのくらい働くか、どのくらい遊ぶか、どのくらい休むかを本人が自分で決めればいい。

「模範的」な働き方を政府が強制したところで、本人の幸せにもつながらないし、成果を出すことにもつながらない。ガムシャラに働いて稼ぎたい人もいるし、稼ぎは少なくていいので休みを多くしたい人もいる。毎日9時5時で働くよりも、気分が乗ったときだけ気ままに働いたほうが成果を出せる人もいるし、年に3か月くらい集中して働き、あとは遊びたい人もいる。

人間はさまざまであり、多様である。自由とは、その多様性を許容する「設計」だ。多様性を許容することは、個人の自由を尊重するだけでなく、そこから生まれる富やアイディアの量を増やし、社会をも成長させる。その反対に、規制によって自由を奪い、多様性が失われれば、その社会は滅びる。
違うんだよ。おれが聞きたいのはそんなことじゃないんだ。他にやることがあるから、努力するのがすげーダルいんだよ。”

“そこそこ上手く見える文章や絵を描いて、中途半端に承認欲求を満たしたいんだよ! 俺は!”

“本業でやっている人には冒涜的なことかもしれないが、俺は最小限の努力でキーボードを弾けるようになってけいおん!!ごっこがしたいし、最小限の労力で絵を描けるようにもなりたい。”

当該ブログの文章。
これを読んで私が受ける印象は、「上手な人を見てガーンとなったけどそれでも描くのがやめられない」人でもなければ「描くのが楽しくて描くなと言われても描き続ける」人でもない。
こう言っちゃなんだけど、「絵をきっかけにして誰かに認めてもらいたい」だけで、そのときの「絵」は、「文章」でも「キーボード」でも任意に交換可能なものでしかないんだと思う、この人の中では。
 
でまあ、「絵」なり「キーボード」なりがお手軽承認欲求のツールでしかないこと自体が、悪いとは思いませんよ?
絵にしろ音楽にしろ、プロとは別の次元で楽しんではいけないってことは全然ない。
これ、よくスポーツマンガである「楽しむことが目的のチームがあっちゃいけないか」問題だよね。
 
でも、自分でも書いてる通り、中途半端な承認欲求を満たしたいときに、「インターネット」なるもの全体を相手にして”今のインターネットも上級者しかいないゲームセンターみたいな窮屈さを感じるんだ。”と言ってしまうのはやっぱり「上のステージをフォーカスして」物を言っているように思う。
「中途半端な努力」で得られる承認の数は、傍に上級者がいようがいまいがさほど変わらない。多分。
どちらかというと、「中途半端な努力でも承認してもらえる」仲間の見つけ方、この人に必要なのはそちらの方かも知れない。
「疑い深いタイプ」を排除して「信じやすいタイプ」「感激しやすいタイプ」を選別するためわざと下手糞な文章にしてある、という「よしだ日記」さんの推測には説得力がある。
たとえば三流週刊誌に載っている「幸運を呼ぶ」アクセサリー(ネックレスとかブレスレットとか)の広告はものすごく安っぽく胡散臭くて「こんなのを信じて買うやつがいるのか?」と疑ってしまうけれど、「怪しげな広告を信じて買う客なら効果がなくても気付かないだろう」という計算のもとにわざと胡散臭くしているのだと考えることができる(本当はどうなのか知らないけれど)。
「怪しげな商品を売るためには怪しげな宣伝をするのが正しい」という発想は私にはなかった。

「鏡の法則」全文にツッコミを入れているブログ - 玄倉川の岸辺 (via otsune)

SPAMメールの類の文章も同じ構造。「あんなので騙される奴なんかいるのか?」ではなくて、送信コストが極限まで低いので、たとえば10000通送って1通反応があれば十分とか、そういう話になる。あのどう考えても信憑性のなさそうな文面そのものがフィルタリングの役目を果たしている。

(via pdl2h)

トルストイは貴族なのに、最も貧しい人たちと同じ生活をしようとした。あるアメリカ人は「立派なことだが、それで貧乏は理解できない。金品の不足ではなく、今後の生活への恐怖が貧乏なのだから」と言った。

活字中毒R。 (via to, no-where—now-here)

2008-05-09

(via gkojay)

(via xlheads) (via mcsgsym) (via katoyuu) (via matakimika)

2011-07-06

(via quote-over100notes-jp) (via mcsgsym) (via katoyuu)

まとめブログのコメント欄などを見ていて、感動されている人々が批判意見へ逆上する様子から
泣くという行為の聖域化というかこの妙な地位(?)について考えてしまいました。

涙を流したという身体反応にとても重い価値が置かれているんですよね。
それは思い出してみると小学校、いや幼稚園の教室から続いていました。
人の涙をからかおうものなら先生にも激怒されましたし、女子を泣かす男子は重犯罪者そのものでした。
今回このゲーセン女のお話とその感想を読んで、日々の大切さよりも前にまずそれを思い出しました。
この涙ファシズムって他の国でもあったりするんでしょうか。

もう一つ気になったのが、創作だろうと感動できたからいい、という800個くらい見た文言でした。
創作指摘に対する防衛からの発言なのかと最初思っていましたが、
「感動した事実こそ正義」という風潮もやっぱりありますよね。小学校時代の国語教育かな??
これってカルト団体や怪しげな自己啓発セミナーが多数跋扈してる現状の遠因でもあるんじゃないかとも
思ってしまいます。

以前、mixi日記で「衛星1基のお金でアフリカに何本の井戸を掘れるか」と書いた女の子がいたので、「どこに井戸を掘れば枯れないか、どうすれば井戸が枯れないようにできるかを調べるのに衛星が必要なのです」と書いたら、思い切り納得された。その程度のことを知らない人は多い。