scattered concepts;


人を最もダメにするのは「全体像」を見せずに「部分的なこと」をずっとさせること。

これ続けてると何も考える力のない指示待ち人間ができあがる。こわいこわい。



外尾悦郎(スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリア主任彫刻家)

歴史の俎上に乗せてしまうと、科学と宗教は驚くほど似通っていて、対立というよりも、補完・強化する関係になっていることが分かる。先進的な科学者v.s.保守的な教会という構図はドラマティックだが、現実は違う。どちらも頑迷さと寛容性があり、どちらにも知的探究心と真実の尊重、レトリックの多用、国家権力へのすりよりといった側面を見ることができる。

 たとえば、ニュートンやボイルのような初期近代科学の開拓者たちは、自分の研究を、天地創造を理解するための宗教的行為の一環と見なしていた。ガリレオもまた、科学と宗教は互いに調和して存続すると考えていた。ガリレオ裁判で争われたのは、地動説v.s.天動説という分かりやすい構図ではないらしいのだ。

 もともと、聖書にある神の言葉の表現は、人間の理解に合わせた解釈を必要としていた。ただし、聖書のどの部分をどう解釈するかは、教会に絶対的権威があった。にもかかわらず、一平信徒にすぎないガリレオが、再解釈を迫るという“権威”を持っているという思想が「傲慢」だとされたのだ。

 科学の定義は歴史的なコンテキストに依存している。ガリレオ裁判をめぐる科学と宗教の衝突が明らかにしたのは、「知識を生産・普及させる権威を持つのは誰か」という政治的な闘争になるのだ。

 アメリカのID論争も、同じ根を持っている。知性ある何かによって生命や宇宙が設計されたとするこの説は、科学的、法的、神学的立場から山ほど反論されている。にも関わらず、米国の一部では、強固に支持する人がいるのはなぜか。この解説がめっぽう面白い。

 ざっくりまとめてしまうと、ID運動は科学的な見解の不一致から生まれたのではなく、ある層の有権者から票を得たい議員たちと、キリスト教徒の親たちを狙ったPRの、純粋な産物になるという。

 もちろん、ID説を「中世への逆戻り」と言いたくなるのも分かる。だが、これは科学と宗教の闘争ではなく、教育を支配するのは誰であるべきかをめぐる闘争なのだ。誰が公共教育における「正しい科学」を決められるのか?有権者か、政治家か、裁判官か、それとも科学の専門家なのか?

 科学も宗教も社会的・歴史的条件の中で営まれており、その対立・闘争の言説が政治的文脈の中にある。疑似科学的な言説をもたらした経緯は、政治的文脈抜きでは理解できないことが分かる。

ちょっと前、「ジューサーの中に金魚を入れる」という現代美術の展示があった。

ジューサーの中に金魚と水が入っていて、スイッチだけリモコンで、観客の側に置かれる。観客は誰もがそのスイッチを押すことができるようになっていて、「いつでも金魚を殺せる」という、その感覚が展示になっていた。
金魚の寿命を延ばすもの

この展示で、実際にボタンを押せた人はたぶんいないのだろうけれど、これをたとえば、ジューサーに入れた金魚をインターネットで公開して、ネットの向こう側にいる誰もが、匿名のままそのボタンをクリックできるようにしておくと、誰かがボタンを押してしまう。多数決ルールを導入して、「ボタンを押した人が累計で10人を超えたら、ジューサーの電源が入ります」という看板を出しておくと、ボタンが押される閾値はますます下がる。

匿名ルールを廃して、たとえばTwitter のような、押した人をある程度トレースできるメディアで展示を公開しても、状況はそんなに変わらない。IDの追跡が可能になってしまうと、今度は逆に、あえて押してみせることを、一種の表現として利用しようという人が出てくるだろうから、金魚の命運は、やっぱり危ういままになってしまう。

恐らくはたぶん、「ボタンは誰でも押せます。累計で10人の人がボタンを押すとジューサーが回ります。その代わり、10人のうち1人だけ、押した人の氏名が公開されます」という但し書きが、金魚の生存確率を高めてくれる。

売名目的の人にしてみれば、自分の名前が公開されない可能性があるならば、自分の行為が無駄に終わってしまうリスクがあるし、怖いもの見たさの人は、「10人のうち1人」という理不尽さがためらいを生んで、やっぱりボタンは押せないだろうから。

完全匿名も、完全公開も、「完全」が、ルールに対する過度な信頼を生んで、常識の垣根を踏み越えて、ぎりぎりまでやる人たちを生み出す。確率論的な理不尽さを持ち込むと、ルールはもう、誰からも信用されなくなる。ルールに対する不信が自制を生んで、自制は落としどころとしての常識を生み出していく。

江戸の町人たちはシューティングでボムを使わないまま死ぬことを何より恥としていました。
Twitter / dongame6 (via katoyuu)

 そもそも自信を持って自分を肯定することと、他者に自慢することの間には大きな隔たりがある。「肉体に自信がある」と断言すると、必ず「おまえはどれだけ自分のことをいい女だと思っているのか」「実態はそうでもないのに、自分はスタイルがいいと思い込んでいる厚顔無恥な女」と非難されるが、自信と、万人に「いい女」として承認される他者評価とは、本来、関係がない。

 目標体重を決めてダイエットしたり、自分の身体を好きになるために毎日オイルマッサージを行ってコンディションを整えたり、コンプレックスを整形手術でクリアするために一生懸命働いてお金を貯めたり。努力の過程でくじけそうになっても何とかやり抜き、成果を得るに至った、自己鍛錬の達成感を自信と呼ぶ。諦めずにやり抜いた自分は、自己肯定するに足る活動を行った。その事実が自信、誇りであって、成果が万人に美しいと認められるクオリティーか否かはまったく別のレイヤーの話だ。

 自己と向き合って得た自信は、他者がいようが、いまいが、何と言われようが、揺るぎなく、美しく自分の土壌に在り続ける。幼少の頃に負った怪我の傷跡を悲観して来た者が、長年に渡って連れ添ううちに、自分らしい肉体のチャームポイントとして捉えることに成功するケースもあるように、「肉体に自信がある」という表現は、自分と自分の容器である肉体の折り合いをつけた事実を自ら喜ぶ状況を指し示す。

 他者が肉体を褒めてくれた時、それがお世辞や社交辞令であっても、鍛錬を乗り越えた自己と正対する者は、素直に明るく「ありがとう」と謝辞を述べる。そうした自己肯定の公言を、一足飛びに「自慢」と捉える他者こそが、自分の誇りを他者評価によって確認したり、人を見下し、馬鹿にするための武器として活用したり、他者との比較によって優位性を誇示したりと、自他の距離を有耶無耶にした状態で他者依存的な「自慢」を行う者である。他者の土壌を荒らさなければ自分を誇れない状態は、自信のなさの現れでしかない。

 自分の土壌に所属する自信を肯定的に受け止められる者は、他者評価を不要とする。自信の肯定発言も、事実説明として放っただけであり、それを相手との優位性争いのためのアイテムとして機能させる構えは一切ない。しかし、意図せず自慢やマウンティングと解釈されてしまうのは、偏に先方が「自分は自分」「人は人」と割り切れぬまま、自他の土壌の上に自己像を築こうとする精神性の持ち主だからだ。

 相手から与えられた情報を、自分の土壌で解釈し、相手の事実と断定認識するから、会話に歪みが生じる。空気も淀む。不潔な境界線にわざわざ居合わせる必要などない。きれいさっぱり無視すればいい。

 と言いたいところだが、放っておいたら自己完結しがちな「在り方」派だけに、異なる価値観の人々とも積極的にお喋りしないと視野が矮小化し、脳も固まる。よって、煙たがられながらも、ユーモアを大事に、丸出しスタイルも曲げずに、陽気に説明し続けようと思うのだ。

 もちろん持って生まれた性格が謙虚な者や、自信がない者を笑うことはない。自己と言動が正対している人には、他者に妙なひっかかりを感知させる淀みがないから、すんなりと言い分を受容できる。そうではない者が、メソッドのオブラートに自信を隠したところで、半透明のオブラートだけに自信は透けて見える。だから鼻につく。自分の「在り方」よりも「見え方」を重んじる者が、自己評価を他者に委ねるあたりには、等身大の自分とは異なる、自分役を演じるパフォーマンスに没入しているような、歪なズレを感じる。  自分という人物は他者の目があってようやく存在し得るため、戦略としての「見え方」は重要だが、それはあくまでも戦略であって、生物としての情報の純度が高いのは「在り方」の方だ。褒められているポイントが、前者の場合は方法論、後者の場合は存在そのものである以上、少なくとも私にとっては、後者の方が喜びは大きい。
専門家が「知っている人」としての立場を保持するために“「私が知っていることが正しいためには、現実はこうでなくてはならない」”という本末転倒な思考回路の罠にハマってしまうのだ。
読めば読むほど、「江戸しぐさ」はトンデモとしか思えないのに、今もなお広がっている。その理由はさまざまだが、原田のこの文章がもっとも的確に示しているだろう。
〈「江戸しぐさ」の説明をみていくと、現代人の不作法を非難し、それと対比する形で「江戸しぐさ」を行う江戸っ子を称賛するという形式のものが目立つ。それは、老人が「最近の若者」を非難することで、自分たちの若いころを称揚するのに似ている〉
「江戸しぐさ」を支持する人たちにとって、重要なのは今の社会への不満や問題意識だ。「江戸」はそれらを批判するために「使われて」いる。本来の江戸がどんなものだったかには興味を持たれていない。
WebやSNSには、取り敢えずてっとり早く注目を稼げれば満足、というような人がいて、そういう人は「燃えやすい藁人形」に対するデマや誤情報を量産してまで反応を稼ごうとする